単純労働の終わり
春から続いていた単純労働が、終わりました。
働くことについて、今までにないくらいには考えることや感じることが増えたように思います。
耳が聞こえて、
目が見えて、
言葉を発することができて、
手を動かして、
足で移動することができれば、
誰でもできそうな、単純な労働です。
この仕事を始める前と始めたあとでの大きな変化は、
【生活リズムの変化】
・朝早く起きることが日課になった
・そのため、夜早く寝ることを意識するようになった
【思索に耽ることができなくなった】
・働いている時間は、余計なことを考えている暇がほとんどありません。目の前のやるべきことに意識が集中しています。
・夕方からのバイトまでの空いた数時間に、落ち着いてぼーっと過ごすことができなくなりました。常に緊張感があって、落ち着きません。
・夜は疲れてしまい、思索に費やす気力があんまりないです。
→これはもしかしたら、自分にとって都合のいい行動を習慣化していくためのヒントとして、今後に活用できるかもしれません。ただ、ぼーっと思索に耽ることができないことでストレスが溜まるのか、旅行に行きたい!と頻繁に強く思うようになりました。
【「細かい作業を地道に続けていくことで、成果が生まれる」と実感】
・「卒論は作業を細かく分けて、地道にやっていくもんだよ」と、声をかけられることが何度かありましたが、「細かく分けるって何やねん」「どない分けたらいいか分からん!」と思って、細かく分けるために考えようともしていませんでした。どちらかというと、気合いなどの精神力で乗り切ろうとしていたように思います。
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・そんな私でしたが、「具体的な成果を上げるためには、体系立った具体的な細かい作業を地道に続けていくことが必要なんだ」と、当たり前だと思われるようなことを、当たり前だと実感をもって思うことができるようになりました。
【自分で考える必要がなく、指示されたことをただやるだけの時間を過ごすのは、私は嫌だと気付いた】
理由はいくつかあります。
・こうした時間を過ごすことに慣れてしまうと、創造的に自分で考える(少なくとも、考えていると思い込んでいる)という今までの習慣が習慣ではなくなってしまう気がして、思考力が落ちそうだと不安になってくるから。
思考する力が弱くなってしまえば、当たり前の日常を改変していく体力も気力も衰えていってしまいそうな気がします。また、人生はこんなもんだと、変に落ち着いてしまいそうな気がします。課題解決のために、どうしたらいいか考えることを習慣化していたいです。
・指示を出す立場にある人は、自分が成し遂げたいことを達成するために、人を動かすことができる。そのやり方に正解はないので、作業工程を工夫したりと、創造的に試行錯誤ができる。そういう時間の過ごし方をしている人を横目に見ながら、創造的に考えることを求められていない作業を続けていく立場にあることに、ストレスを感じる。
・予想外の出来事が起こらず、予定調和であることに退屈してくるから。その日の作業を始める前に想像していた通りのことが、ただ起こり、時間が過ぎていくことが退屈すぎて、耐えがたい…。
【ビジネス用のコミュニケーションの仕方があると気付いた】
・分からなかったら、自分の意見を出すのではなく、詳しく知っている他者にすぐに聞く(自分個人の意向ではなく、組織としての意向を反映させる)
・忖度しない(交渉過程は、はっきりと言葉で表明しながら行うこと。未来起こることを確実なものにしていくために。余計な手間を生じさせないために。)
・多義的に捉えられる発言を回避する
・曖昧さをなくす
・端的に要点を伝える
・迷いが生じないように環境を整える
・作業計画を事前に立てる
・同一時間内にできる作業の効率を上げる方法を探す
・ミスが生じにくい方法を考えて作業に組み込む
→生活空間で、他者と行うコミュニケーションとは根本的に性質が違う。ビジネス用のコミュニケーションに慣れる必要があると思いました。
その日を暮らしていくために、やるべきことがわかりきった作業を淡々とこなして、ギリギリの生活費を稼いでいく生活が、非常にストレスフルです。
そうした生活から抜け出したいと思っても、抜け出せるような見込みがないと思われるような状況に、自分の身を置きたくないと思いました。
「置きたくない」と思ったら、行動です。
by 言葉が上滑りしがちなぽんぽこたろう