中学の時に書いた日記

実家の自分の部屋で、中学の時に書いていた日記を読んでいました。

 

以下、抜粋して書いてみます。

 

……

 

「人と少しも目を合わせんようにしているのは治したいかな。…人が怖いねんよ」

 

「私は今までずーっと人が嫌いで。だから多分これからもずーっとそうで…。人を好きになれたらいいんやけど…」

 

「人が嫌い。人が怖い。人を信じられない」

 

「選挙で立派な演説をしている人に聞いてみたかった。私は迷惑な人間じゃないですよねって。だって、なんか周りの人に不快な思いをさせてばかりっていうか…」

 

「最近ほんまに周りの人に迷惑をかけっぱなし。1日10人には謝らなね。自転車10台くらいドミノだおしになった。車掌さんにドア開けてもらった。テニスでぼーっとしてた。いろいろあるんよ、他にも。すいません。すいません。すいません。だから、学校にもあまり行きたくないんよ。でも、行かんかったらそれだけでまた迷惑かけてまうやん」

 

「舌打ちされたら、心のなかで『ごめんなさい』と謝るような、そんな気の弱い人間になんかなりたくない。自分に自信をもって、違うなら違うとちゃんと否定できる人間になりたい」

 

学校に行こうとして駅まで行って、また家に引き返して、休んだ日もあったみたいです。

 

 

……

 

この頃の自分からは、だいぶ変化したと思います。

 

自分が変化すると、以前の自分のことがよく分からなくなってしまいます。

かつての自分のことすら分からなくなるのに、他人のことなんて、分かるはずがありません…

 

半年前までの自分との違い

最近、過去の自分から離れていっているな…と感じます。

 

自分が車だとすると、空いた高速道路をアクセル踏んで、ブーン!と飛ばしていっているような感じがします。🚗💨💨💨

今までいた街から、どんどん離れていって、見える景色が変わってきたような感じがします。

 

 

なんでアクセルを踏んでいるのか?

 

簡単に答えてみます。

 

 

1. なんでアクセルを踏んでいる(ように過去の自分から離れていっている)のか?

 

1) 「変わりたい」という意識の高まり。

(車の旅🚗に例えると、「旅行にいきたい」という気持ちが高まった)

大学を卒業して、社会人として一人前にならないと…という意識が芽生え、このままではいけないと思った。一人前になるためにも、不要な荷物は置いていかないと…と思い始めた。

 

2) 変化を後押ししてくれる他者が周りにいるから。

(車の旅🚗に例えると、旅行に関する情報が集まり、実行に移しやすい状況ができている)

「変わりたいな…」と自分一人が思っていてもなかなか変われないものだと思いますが、幸いにも「今のあんたのこんなとこ、もういらんから捨てて行き!」「こうしたらもっと良くなると思うよ」「自分で自分のこと『こうだ』と決めつけているの、もったいないよ」などと声をかけてくれたり、変化を後押しするグッズや情報を与えてくれたりする人たちがいるおかげで、変化しやすい状況が作られています。

 

3) 日常生活で最低限やらねばならないことの負担が減った

(車の旅🚗に例えると、旅行に割ける、時間的・体力的・精神的余裕ができた)

毎日やることに追われていたり、毎日肉体的・精神的にヘトヘトになっていたりすると、なかなか今の自分から離れていこうとは思えないと思いますし、仮に思ったとしても実行できる余裕がないと思います。

「人生の夏休み」ということにして、頑張りスイッチをとりあえずオフにして、今は生活していければまあいいやというスタンスに切り替え、気楽になったことが大きいと思います。

書きながら思いましたが、これは1)「変わりたい」という意識の芽生えの前提条件になっている気がします。まあ、個人の意思だけでなく、外的な環境が急激に変化し、それに適応していく過程で否応なくそう思うようになった面もあると思いますが…(生理・心理・社会モデルに則れば、それぞれのシステムは互いに関連しあっている)。

 

4) 変化している私を「いいね」とポジティブに評価してくれる他者がいるから。

(車の旅🚗に例えると、…うーん、何でしょう…。方向性は間違ってないんだと認識できるという意味では、案内板の存在でしょうか?)

 

ちょっと頑張ってみたら、「いいじゃん!」「いいね」「その意気」と声をかけてくれる他者がいるから、こんな感じでいいんだと思って安心する節があります。

 

 5) 自分の弱いところを言葉にした時に、それをまるっと受け止めてくれる他者がいるから。

 

(また他者でした)

 

6) 今の自分に自信を持たせてくれるような出来事が、いくつかの領域であった(ある)から。

(車の旅🚗に例えると、運転技術に対する自信でしょうか。)

 

「少なくとも今、その(とても小さな)領域においては自分くらいにしかできないっぽいぞ…」と思えることが、ちょいちょいあります。それが自分への自信に繋がって、さらなる高みを目指す意欲を高めたり、実際に行動に移す際の自信に繋がったりしている気がします。

 

 

………

 

…面倒くさくなってきました。_(:3 」∠)_

 

なんでアクセルを踏んでいるのか?

いろんな要因が集まって、その状況を可能にしているっていうことでしょうか。🚗💨

 

……

 

話は逸れますが、今の自分の思考の仕方の当たり前、当たり前になってしまっていることを可視化して、本当にこれが最適なのか?と、積極的に見直しをしていかないと…と思います。

 

正直、小学生の頃からあんまり変わっていない部分は、この際にちゃんと見直していきたいと思います。

 

今日の気付き

地域活動団体の定例会議に参加して気付いたことを書いておきます。

 

 

バックグラウンドや仕事内容が互いに異なる人が複数人集まって、気を緩めて話している時にこそ、「じゃあ、これやろうよ」と次に繋がるような会話が生まれることが起きやすいなと感じました。

 

 

プレゼンの準備をしていくわけでもなく、ふと「(自分の状態)こうなんだけど」と話したら、そこから、その場がなければ生まれてこなかっただろう話が出てくる。

 

 

こういう、なんか、「創造的なことが生まれた!」と感じることが起こる場に居合わせることができたら、なんか嬉しいです。

 

 

行動があって、アイデアが出て、また次の行動を起こしていくことに繋がる…

 

私も、いろいろ経験を積んで、知識を蓄え、その創造的なプロセスにもっと参加できたら楽しそう。

 

今身を置いているところから出発して、私ならではの視点を他人に提供したり、できることで何らかの役に立てたりするような人になれるように頑張ります_(:3 」∠)_

最近の気付き

最近は、相変わらず慌ただしい毎日を過ごしています。

 

その中で気付いたことを共有いたします。

 

……

 

1.勉強のやり方を教えたり、勉強を進める過程をサポートすることに熱心に取り組んでいる

 

復習の仕方は、なかなか細かく指導されることがないと思うのですが、私はここがとても大事だと感じています。復習の仕方を提案したり、効果的に復習できるような状況を作り出すことに試行錯誤したりするのが好きみたいです。

 

……

 

2.自分が熱心に語っていることと、実際に熱心に取り組んでいる(取り組もうとする)こととに差があることに気付いた

 

「生まれた家庭、生まれもった能力、場所によらずに自分(がいる環境)を変えたいと思えば、変えていけるような環境をつくりたい」と熱心に語っていることがありますが、そういった環境を作り出す活動にまさに取り組んでいる人の話を聞いた時に、いまいちピンと来ていない自分に気付きました。

自分のことはほんまによく分からないですが、また少し、自分について知りました。

 

……

 

3.「こんな感じだろうな」と予測していることは基本的に外れる。現場に足を運ぶと、想定外の学びがあることが多い

 

「こんな感じだろうな」と予測して、「だから行くのやめよ」と思うことがよくありますが、ここ数年は「で、実際予測どおりになるか検証するために行ってみよう」と思って、意図的に行動するようにしています(仮説→実行→検証のステップを踏み、行動するまでがワンセット)。

それで気付きましたが、予測どおりになることは滅多にありません。何かしら、現場に足を運んだからこそ見えたことがあります。

 

今日もそんな一日で、どこかに小旅行に行ってきた時並みのインパクトがある、新たな発見がありました。やはり足を運んでよかったです。

予定がかぶさった時には、選択の軸の一つとして、自分の経験からでは、これから起きることを予想しにくいほうに行くようにしているかもしれません。(分からないので語尾はあいまい)

 

……

 

学びが多い日々です…

最近の毎日は

最近は、行動に焦点を当てて時間を過ごしています。

行動せざるを得ない状況になってきているのと、じっとしながら妄想をしていても仕方ないという思いが強まったからかもしれません。

 

……

 

行動せざるを得ないのはなぜかといいますと、

1点目は、働いてお金を稼がないと生活していけないからという現状があるからです。

2点目は、周りにいる人たちから楽しそうなイベントなどに誘われる頻度が増えたからです。

3点目は、生活を成り立たせるために細々したことを日々こなしていかないといけなくて、妄想する時間がないからです。

仕事と遊びと、生活の中の雑用に時間を費やすようになりました。

 

学生時代(前半)は、仕送りがありましたし、こんなに周りの人から誘われることもありませんでしたし、こんなに生活も立て込んでいませんでした。

 

……

 

じっと妄想していても仕方ないという思いは、特に大学4年時の卒論執筆の過程で強くもつようになりました。

自分自身が進めていかねば、誰も進めてくれません。自分でやっていかなあかんのやと強く思いました。

また、マネーの虎の動画視聴の影響もありそうです。実践もないままに夢物語を語る人に、誰が投資をするでしょうか。

また、時は流れて行くものだと感じることが頻繁にあるようになりました。「イマココ」に焦点を当てられるようになりました。

 

 

……

 

さて、眠いのでおやすみなさい😴

中高時代からすさまじく変化したと思います。

変わったよね、と同級生から声をかけられます。

 

 

人の人生に対する強烈な興味は、10歳頃にはありました。なんでいま、こういう人としてここにいるのか?どんなプロセスを経てこうなったのか?

 

知りたい知りたい知りたい。やりたいなぁと思っていたことが、徐々にできるようになってきました。

 

いつ頃からか分かりませんが、中学生になる頃にはすでに、対人恐怖症で、すれ違う人と目を合わせられませんでした。

男性恐怖症で、男子はジャガイモ🥔と思って、なるべく関わらないようにして過ごしていました。

醜貌恐怖で、鏡で自分の顔を見ることができませんでした(これは今でも苦手)。

 

美容院に行く・行かないを3時間葛藤した末で、泣く泣く行くのを諦めたり、自分で髪の毛を切ったりしていた日々もありました。綺麗になる資格なんてないと思っていました。恋愛する資格も自分にはないと思っていました。

 

対人ストレスが高まったら、すぐに過食に走りました。そんな自分が惨めに思えて、さらに自己嫌悪に陥るという負のループによくはまりました。

 

今こうして、過去の話として話せるようになった自分は、変わったんだなぁと思います。

 

 

そういう日々を過ごしていた自分に対しては、特になんとも思わないかもしれません。ただそういう時間を過ごしていたというだけで、今の自分に繋がっている、どれも大切なプロセスだと思わなくもないです。

どう捉えたらいいのか、、言葉があまり出てきません。

 

中高時代に話すこともなかった人とべらべら話して、中高時代に恐怖を感じていた他者と積極的にコミュニケーションを取っている自分がいます。

 

 

人は変わります。

 

 

創造的なそのプロセスが面白いです。